追記:文脈

ki9te502009-11-18

追記:
先日の朗読パフォーマンスの後のインタビューで、
晴夫さんに「文脈が、ほぼないよね。」と言われた。
それは、私の朗読は、聴いていて文脈が分からないということのようだ。
 その後に、M島さんに、
「岡田さんのパフォーマンスは、聴いていると文脈は記憶できなくて、時々、気になる言葉やニュアンンスがある。でも、すぐ忘れてしまって、また気がつくと別のことをしていたり語っていたりしている。半径15cm位しか記憶がもたない。でも、やってる人がそういう人なんでしょう。」
というような事を言われ、私は、
「そうですね。普段もそういうものの見方や捉え方をしています。全体をボーと眺めていて、フッと掴んだところを見るといった感じです。」
と答えた。それに対して、M島さんは、
「変な人ですね。」
と笑った。
・・・そうか、それは変なのか・・・。
言われてみれば、朗読パフォーマンスなのに、いわゆる文脈を聴かせようとはしていなかった。
今回は、作った文章を音(オン)として、揺らすこととだけを中心に考えていたし、視覚的に行為を見せることを少し考えたくらいだ。
だから、常日頃、背景や時間を半径15cmくらいでしか知覚していない(全体は遠目で見ている)私が、自分から出てくるがままに任せていたので、文脈がほぼ読み取れないの当たり前なのかもしれない。
・・・そうか、文脈を聴かせるということを意識するともっと複雑にできるし、もっと遊べるし、そして見てる人を引き込めるんだなと思った。


 リュンコイス作「うつつの夢」の最後に
「荒唐無稽・・・矛盾・・・まぜこぜの時間と空間・・・ だからといって、夢の本当の内容は少しも変わりはしないんだ。時間と空間ってのは夢の本質的な内容にとって何の意義もないからさ」 
友は言った。
「本当にね。君が今、僕の夢を解いてくれたように、そんなふうに世間の人が皆正しく夢を解くことができたらいいんだがね」
「無論、それは容易な業ではあるまい。しかし本人が少し注意深くしていれば、それはできない相談ではないのだ。―なぜかというと、眼を覚ましてるのも、夢を見るのも、いつだって同じ人間なのだからね」


と語られている。(川原泉フロイト1/2』のエピグラフからの孫引き)
・・・というような状況を、私は作ろうとしていた。
でも、足りない。
今のままでは、忘れ物が多い。



ハンドルネーム火星の住人さんが見に来てくださり、Twitter小説の形で素敵な感想をくださいました。
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    (写真撮影:波多野康介(blanclass))